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Showing posts from April, 2022

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その日のうちに、酸素濃縮器は 2 台準備することになり、医療器具の会社の方となぜか訪問看護士さんのふたりもやって来ることに。 その頃にはわたしはもう嫌過ぎて記憶も、貼り絵感がありますが、この際ハッキリと聞いてみようと「この機会は 7L 酸素量 1L から 5L までと言う指示でしたよね…。」と言うと大きく頷いた看護士さん。そのすぐ、ぐわーっと顔を近づけて「緊急時はAaaaー」と言うのでまた悪い癖で話す気が失せてしまいました。 父も姉もわたしも初めての経験、迷惑かけたくないと人一倍思っているだろう母を前にいつものようにできる限り過ごしていましたし、父の好きなバート・バカラックの Alfie 流したら母が怒ったり、少しの失敗はあったもののなんとか気をつけていました。 母は特に他の方が来ると元気に振る舞って楽しませようとしてるのがわかりましたので心配していて、その日に限っては、食欲もなく葡萄 5 粒と頂いたゼリーしか食べれずにいたのに .. 。 そして次の朝また酸素の数値が上がらず、熱がまた上がっていました。緊急連絡先訪問医の方へ電話をかけ、少し待つと受け入れお願いしたので救急車を呼んでくださいとのこと。そんななか父は薬を取りに薬局に行ってしまい、父が戻ると同時に救急車を呼んで母を主治医のいる病院へ運んで頂きました。 もちろんわたしは酸素量最大 10L にしていたのですが、救急隊の酸素も 10L で母がどんなに頑張っていたのかと思いました。 緊急搬送口にはたくさんの家族の姿があり、 ベンチに 1 人座って待つことに。 姉の隔離期間が終わり、戻ってくるので、わたしは今日まで母の元にいる予定で病院に来て逆に安心していました。 母の様子や医師のやりとりを父と姉が揃ってやってきたと同時に担当の先生から母がコロナに感染していると聞かされました。 Later that day, two oxygen concentrators were to be prepared, a lady from medical equipment company and    those nurses for some reason were to come as well. By that time, I was already too disgusted to remember and felt l

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  そして、わたしが立ち会った最初で最後の医師訪問日の朝。 夜明け頃、母のパルスオキシメーターが 65 辺りの数値 ( 通常時の人の数値は 98 で 90 を切ると生命の危機が近付くという感じ ) と異常に低くなっていたので、救急車を呼ぼうかと思いましたが、まずは訪問看護の緊急連絡先に電話をかけました。 電話口では気だるい大女優かの様な誰かが、 「はぁい。 … はぁい。」と返事をするのでドンドン不安な気持ちに。 改めて電話口の方の名前を確認すると、いつもの看護士さんだったのでびっくりしつつ、なんとか落ち着きを保って冷静に対処法を聞くと、そもそも承知している病気の説明が始まってしまい、ひとしきりユルいテンションで話す(急にキャラ変するのもおかしいと思ったのかな)ので、「申し訳ないのですが一度電話を切ります。」と電話を切り、必死で母を落ち着かせて横になってもらいました。 「息を吐ききれないと酸素量だけをあげても意味がない。酸素が入っていかない。」 という話だったので、母に頑張って「息をはこうねっ」て言っても、 「それができなくなってるのよ。」と。ほんとにそうだと思う。 なんでできないことをしなければいけないのだろうとおもう。 パルスオキシメーターの数値は低いまま変わらず、無理なお願いを自分がしているようで、本当にどうして良いか分からず、訪問看護の方から言われていたよりも多い 5 リットルという酸素量が出るよう自分の判断で調整しました。 そうしてやっと母が落ち着き始めた 20 分後、訪問看護の方より、「緊急時は 7 リットルまで酸素あげて良いと言うのは医師からも聞いている通りだと思いますが ... 」という電話が。緊急時 7 リットルというのは初耳で、今朝の緊急連絡時にそれを言えば良かったのでは、と思う内容が電話口から聞こえてきて、私はこんな相手を頼って電話していたのかと思うと、なんだか馬鹿らしくなってしまい、丁寧に会話を切り上げ電話を終えました。 そして訪問医の方が来るまで安静にするも、母の熱が 38 度を超えていることがわかり、自宅で出来る事は少なく、もうここで看るのは難しいという判断がなされました。 カニューレが逆に装着されていたことも、この病状を前にしては小さなこと、いった印象で。 でも、わたしが言いたいのは、カニューレ逆だと嫌な感じじゃんということで、供給される

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母から父へのラブレターを離れにある鍵のついていない棚に仕舞われているのを姉が見つけたと言っていたので、気になりつつ見る暇もなく母と過ごして 1 週間が過ぎた頃、今まで以上に酸素の値が安定し づらくなり本当に泣き出しそう な気持ちでいました。 パルスオキシメーターを指につけて酸素飽和度を確認しなければいけないのですが、深く眠りに入るとどうしても訪問看護の方からの指示通りではガクッと数値が下がり、酸欠状態になってしまうので、母が眠っていても気が抜けない感じになってしまいました。 そんな夜カニューレのロゴがどう見ても遠く霞んで votlow.. え?酸素だから Aqua とかそう言う文字なんじゃないのかなと、さらに真夜中にぼーっと見つめるとこれは逆に装着されているんでは、 その 3 日前にチューブからその酸素を取り込む部分の付け替えをお願いした時に間違えてしまわれたんではと不安になりました。 次の日、そのことを伝えるより先に看護師さんが「これ、付け替えて良いですか。」と言って帰った後、ロゴが ATOM とハッキリ読めるようになっていて、そう言えば髪の毛の上から医療用テープを必ずペターってはるし、母がボディーソープで髪を洗ってしまったって母自身が悪いみたいに話していたけれど、あれもおかしくない?と、急に最高に嫌な気持ちに。⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎!!!っと本当に悲しい気持ちになったのです。 それでもそう言った事は直接母の寿命を縮めたわけでもなく、ただ嫌なだけの出来事なので、相手は悪びれずに「酸素の供給量には関係ない」となにか言いながら視線の隅で手を振っていたけれど、すでに母は安静時に 3L の酸素が必要になっていて、わたしはその人物を信頼できなくなっていました。 My sister told me that she had found a love letter from my mother to my father in an unlocked cabinet in a remote, and after a week of spending time with my mother without time to look at it, though I was concerned, I really felt like crying because my oxygen leve

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母が本棚の奥に仕舞い込んでいたわたしの小学 1 年生の時の絵日記。 わたし 9 歳まで全く記憶がないのですが、ちゃんと生きていたみたいです。  My mother had put it away in the back of a bookshelf. My picture diary from the first grade of elementary school. I don't remember anything until I was 9 years old, but it seems I was alive.

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3 月 27 日わたしの母が亡くなりました。 3 年間、間質性肺炎という難病を罹っていていました。 本当にわたしは母に強い影響を受けて育ったと思うのです。 ただこの数年間はそんな自分を疑って、どこか自分を信じられていないような感覚になっていたので、母に寄り添って過ごすことができていなかった悲しい期間がありました。 だけど、先月のブログでも書かせて頂いたように、もうこれが最後の機会になるのではと言う時でも、母は明るく自分のベットの足元をポンポンとたたき、「あなたここに寝ていなさいよ」と本気で言っていて皆で笑っていたことや、母と話すと悩みも悩みでなくなるような感覚を思い返すと、出会えて本当に良かったと思える大事な人で、なによりも独特な愛情を常に与えてくれていたと思います。 入院してしまうと最期まで会えない状況の中、終末医療施設は嫌だし、父と姉と相談してなんとか家で母と過ごせるよう、訪問看護で医師もお家に来てくれるという形で最後を過ごす事になっていたのですが、それがわたしにとってはとっても難しい経験でした。 3 月 13 日、 姉が発熱し、父一人だとの連絡があり、お家へ戻る事に。そこからの 11 日間、母と過ごした時間は、赤ちゃんが 1 日 1 日成長し姿を変えるのとはまた違う時間の速さで、 1 日があっという間のようで夜中も目が離せないので、 1 日の長さが 3 倍くらいに感じていました。 廊下を歩くのもままならず、カニューレという鼻から酸素を吸入する器具とチューブと格闘して酸素の数値が下がらないか、廊下を歩ける距離が日に日に縮まり、食卓までも歩きたくなくなって、ベットから脚を下ろすのも嫌になってと短い期間で徐々に、できていたことが難しくなっていて、本当に辛いんだろうなって。 テレビでは最悪な戦争のニュースが流れていて、夜中に地震の速報も。母は息を吸えなくなって行く。わたしは葡萄を本当にちいちゃく切ったり、調律していないビヨンビヨンのピアノでも弾いてみてって言うので金平糖の踊りを弾いたりして辛さを和らげることがないか探していました。何倍にもなったようなピアノの音は本当に聴いたことのない音がしていました。 My mother passed away on March 27.  She had been suffering from an incurable disease